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「末人」の跳梁――羽入「ヴェーバー詐欺師説」批判結語(1−3)

折原 浩

2004727

 

 

小括

 以上が、羽入書「第一章」にたいする批判、そこにおける「意味変換操作」の追跡/暴露/論証である。

  羽入は、ⓐ「遺跡」(= マックス・ヴェーバーの全著作)から一「遺構」(=「倫理」論文)を、「遺構」からその一「部位」(= 第一章「問題提起」第三節「ルターの職業観」第1段落の「トポス」とそこに付された三注)を、さらにその「部位」から一「遺物」(=「イングランドにおけるBeruf相当語=callingの普及経緯」にかんする原文16 150)を抜き出している。そのさい、「遺跡」のなかでの「遺構」の位置価、「遺構」のなかでの「部位」の位置価、「部位」のなかでの「遺物」の位置価、が顧みられず、それぞれを抜き出す根拠が論証されていない。したがって、当の「遺物」が、「遺構」とその「部位」の「配置構成」のなかで本来そなえていた「意味」と「限定」が無視されている。

  原著者ヴェーバーは、「ルターの職業観」節冒頭、「トポス」としてのBeruf論で、「使命としての職業」という聖俗二義を併せ持つBerufが、宗教改革者ルターの聖書翻訳から、原文ではなく翻訳者の精神の表明として(つまり意訳によって)創始されたと主張し、その歴史的経緯と帰結(の一部)を注で詳細に論じた。なるほど、ルターにかぎらず、西洋近世以降プロテスタントが優勢となる諸民族の宗教改革者たちは、それぞれ「顕示的信仰fides explicita」に欠かせない聖書の自国語訳に取り組み、それぞれ(「神に召し出された使命としての職業」という聖俗二義を併せ持つ)Beruf相当語を創り出していった。しかしそれは、改革者・翻訳者各人が置かれている「言語ゲマインシャフト」の歴史的社会的条件のいかんにかかわりなく、一律にルターの創始過程を真似て(あるいはそれに合わせて)、そのパターンを反復ないし縮小再生産していったということではない。ルターが『シラ』句の独訳で語Berufに「使命としての職業」という語義を創始したからといって、他の改革者・翻訳者も、みな判で押したように『シラ』句の自国語訳から始め、「言語創造的影響」力を発揮すると決まっているわけではない。ヴェーバーがそんな主張をしたためしはないし、だいたいまともな歴史・社会科学者が、歴史的・社会的条件の多様性を無視して、そんな戯言を語るはずもない。

 ルターのばあいは、救済追求「軌道」の「世俗内」「転轍」という画期的「意義」が、「現世の客観的秩序」「身分」「職業」を「神の摂理」と捉える「摂理観の個別化」「伝統主義」と結びつき、「使命としての職業」概念が孕まれ、これが聖書翻訳計画の進捗状況とあいまって、聖句としてはまず(反貨殖主義的・伝統主義的な「神への信頼」を説く)旧約外典『シラ』11: 20, 21の(純世俗的職業ないし職業労働を意味する)ergon ponosに(それまで「神の召し」あるいはせいぜい「聖職への招聘」という純宗教的意味に使われてきた)Berufを当てるという劇的な形式で、それだけ鮮やかに表明された。以後、この大胆な意訳がルター派においては(排斥されるのでも、廃れるのでもなく)受け入れられ、『コリントT7: 20他の聖句にも俗語の語彙にも普及し、一方ではルター派宗教政治勢力の伸張、他方では領邦国家の分立と方言群の割拠状態という「言語ゲマインシャフト」の特殊な歴史的・社会的条件のもとで「言語創造的影響」もおよぼして現在にいたっている。しかし、ルターのドイツとは歴史的社会的条件の異なる「言語ゲマインシャフト」に生きて、ドイツ語以外の言語を母国語としている宗教改革者たちは、ルターによる宗教改革思想の影響を(聖書翻訳のみでなく、著作にも表現されるルターの「生き方」そのものから)強く受け、その一環としてBeruf創始の意義は重々認識し、思想とともに自国語に移したいと思い立つにしても、それぞれ自国における(あるいは自国を拠点とする)宗教改革を進めるにあたり、そのプログラム全般のなかで、どれだけの比重を「言語改革」に置き、これをどのように進めていくか、という一点にかけては、一方では、それぞれの「言語ゲマインシャフト」における歴史的・社会的諸制約(彼我の力量の差を含む)、他方では、それぞれの母国語の状態(ステロ化・合理化の度合い)に応じて、それぞれ取り組みのスタンスと帰結とを異にせざるをえなかったであろう。

 こうした視点と研究プログラムは、ヴェーバー的歴史・社会科学の一ジャンルとして、ここで「言語社会学」的比較語義史と名付けられ、今後、新進気鋭の若手研究者によって引き継がれ、鍛えられ、展開されていってほしい[1]と思う。とまれヴェーバーは、問題の注3[6]段落で「イングランドにおけるBeruf相当語の普及経緯」という(まさに羽入が抜き出す)論点に入る直前の[5]段落末尾で、かれが「倫理」論文の主題との関連で最重要視していたカルヴァン派への影響にこと寄せて、そうした視点を明快に語り出し影響先「言語ゲマインシャフト」の歴史的社会的諸条件と、そのなかに生きる宗教改革者・翻訳者の主体性を捨象しないようにと警告を発した(あるいは、かれの歴史・社会科学に少しでも通じていれば、そう警告していると読み取れるように語った)。しかも、カルヴァン派の大衆宗教性が「確証問題への関心」(という主体的条件の成熟)から、ルターの職業概念を受け入れて鋳直すのは、後代17世紀以降)のことで、ルターの直接の影響には帰せられ、イングランドにおけるBeruf相当語callingの成立/普及だけにも帰せられない、それこそ(「倫理」論文の主題にとっては)はるかに重要な問題で、本論(第二章)に入って正面から本格的に取り扱うから、このあと3[6]段落では立ち入らない、およそ注しかもその末尾で触れて済ませられる問題ではない、とはっきり断っている、あるいは断っているも同然なのである。

 しかもその第[6]段落の原文16行約150字については、ヴェーバー自身、かれの「言語社会学」的比較語義史研究としては大いに限界があり、かれとしても不十分/不満足なものと重々心得ていたにちがいない。かりにかれがイギリス人で、「トポス」にBeruf でなくcallingをもってきたとしよう。そのばあいには、語形callingが聖俗二義を併せ持つBeruf 相当語歴史的に形成される経緯を、ちょうどかれが「トポス」に選定した自国語Berufについて、長大な注3でルターの思想と用語法の変遷をたどって突き止めたように、またそれが創始点でそれ以前にはタウラーのRufという「廃れた」用例があっただけであろうと、ルター以前に遡って調べて(「自分の知るかぎりでは」と慎重に断って)語ったように、自国語の古語義史であればこそ手をくだせた独自の研究を、イングランドについて、たとえばルターの代わりにウィクリフなりティンダルなりを焦点に据えて完遂しなければならなかったであろう。いや、じつはそのことは、ヴェーバーがルターのみを震源として宗教改革の伝播を見ていくドイツ中心の歴史観[2]の持ち主ではなかったからには、あるいは少なくともそうした史観から解き放たれて考えることができたろうからには、なにも英語のcallingを「トポス」とはしないまでも、本来ここでできればcallingについても、そうした独自の研究をまっとうしなければならないと承知していたにちがいない。

  しかし、ヴェーバーは、そうした独自の語義史研究を第一次資料に当たって遂行しなければならないという規範的格率と、つねに過大な研究課題を抱え、研究主題を目指して「道草」を食わず効率よく研究を進めたいという経済的格率との「せめぎ合い」を、また「素材探し」と「意味探し」との緊張を、生きていた。かれの関心の焦点は、なんといっても、語形はもとより語義にもなく、なるほど語義にも表明されはする人間諸個人の「生き方」(意味・思想・エートス)にあった。ここで、宗教改革の思想が「生き方」におよぼした影響を追跡するにあたって、その途上で語義史にも立ち入る必要が生じたとしても、それに度はずれた時間と労力を割くわけにはいかない。そこでかれは、賢明にも「自分の足らざるを補う」次善、むしろ最善の策を採った。ちょうど、0EDが刊行され始め、その第二巻に、碩学マレーが自国語なればこそcalling歴史的用例を広く蒐集し、語義を明晰/判明に(ヴェーバー流にいえば「理念型」的に)分類し、分類項目間の流動的移行関係にかんして語源学的な説明を与えてくれていた。そこでヴェーバーは、自分でにわかには調べようもない歴史的用例の素材は、(例の「エリザベス時代における宮廷用の英国国教会聖書」を除き)おそらくは確かに全面的にマレーの記事に依拠し、ただ独自の観点から記事内容を再構成して、「イングランドにおけるBeruf相当語callingの普及経緯」の大筋を、3[6]段落の叙述にまとめたのである。すなわち、旧約外典シラとは異なってどの宗派にも一様に重視された『コリントT』7: 20定点観測点としてklēsisの訳語の変遷をたどると、前稿でも概観したとおり、注目すべきことにウィクリフのもとですでに1382clepynge(『コリントT』1: 26ではclepinge)と訳されていたが、1534年のティンダル訳(改訂第二版)[3]1557年の「ジュネーヴ版」ではstateに戻り、さらに1582年のランス版と「エリザベス時代における宮廷用の英国国教会聖書」では『ヴルガータ』にならってvocationに戻っているが、興味深いことに、153539年のクランマー監修訳から1568年の「主教たちの訳」をへて1611年の「キング・ジェイムズ欽定訳」へと、むしろ英国国教会の公認訳聖書のほうにcalling系が用いられ、引き継がれ、定着している。これも、テューダ王朝が教皇庁から独立して国教会を結成し、カトリックと大陸のプロテスタンティズムとの中間で、自国語聖書の編纂と普及に関心を寄せ、ときにイニシアティヴをとるといった、イングランド「言語ゲマインシャフト」の(ドイツともロマン語系諸国とも異なる)歴史的変遷を映し出していると、ひとまずはいえよう。

 ただし、注3[6]段落における原文16 150字の叙述は、イングランドにおける(Beruf相当語としての)callingの語義形成と普及にかんする「言語社会学」的比較語義史研究としては、「トポス」の付論とはいえ密度の高い、ルターに焦点を合わせたドイツ語Beruf創始の研究に比べれば、当然のことながら格段に見劣りがする。かりに、羽入なり別の研究者なりが、ヴェーバーとは異なり、イングランドを研究の主要なフィールドに選び、そこにおけるcallingの語義形成/変遷/普及を主題として本格的に研究し、ヴェーバーを批判的に乗り越えようとするのであれば、上記13. の後半部で設定したような問題、すなわち、@ルターに一世紀半先行するウィクリフにおけるclepyngeが、はたしてBeruf相当語であったのかどうか、あったとすれば、いかなる歴史的経緯をへてそうなったのか、A大陸に亡命してルターやカルヴァンと交流するなかで英訳をおこなったティンダルやフウィッティンガムよりも、英国国教会公認訳のほうにcallingが多用され、普及し、定着していくようなのはなぜか、このcallingはBeruf相当語なのか、そうとすればいかなる経緯でそうなったのか、そうでないとすれば、ルター/ルター派の、あるいはピューリタン的な用語法との間にどれだけの齟齬があったのか、B『箴言』22: 29「わざmelā’khā」の訳語としてbusinessに換えてcallingが当てられる(まさにルターにおける『シラ』意訳事件と機能的に等価のピューリタン的意訳事件が起きるのは、いつどこでどのようにしてであったか、というような問題を再設定し、歴史・社会科学的に(「トポス」以上の密度をもって)究明しなければならないであろう。かりに羽入が、3[6]段落の原文16行約150の叙述から、こうした問題を引き出し、「ヴェーバーでヴェーバーを越える」方向に、あるいはもとより他の研究方法/技法を用いてもよいが、前向きに研究を進めたのであれば、ヴェーバー自身も草葉の陰から身を起こして、わたしたちヴェーバー研究者とともに、心から喜び、その功績を讃えたことであろう。

 

 しかし、羽入がじっさいにおこなったのは、どういうことであったか。

  ⓑ注3[6]段落の原文16行約150を、以上に要約したような位置価を無視し、直前の文章からも切り離して(本稿8.参照)、そこだけに視野を狭め、しかも羽入の「唯『シラ』回路説」のパースペクティーフに移し入れ、ⓒヴェーバーの「杜撰」(しかも「狡い杜撰」)の証拠に「意味変換」した。ヴェーバー批判を踏まえて学問研究を一歩前進させたのではなく、学問的批判の体をなさない誹謗中傷に逸脱してしまったのである。

 羽入は、かれの「唯『シラ』回路説」からすれば、ヴェーバーは真っ先に「英訳諸聖書を手にとって」『シラ』11: 20, 21調べるべきであったにもかかわらず、そうせずに、「本来は全く関係もなく意味もない」(35)『コリントT』7: 20の用例を持ち出してお茶を濁した、と難詰する。しかも、かれがそうせざるをえなかったのは、3[6]段落の執筆にあたり、OED “calling” 項目の(『シラ』11: 20, 21については用例の記載がなく、『コリントT』7: 20の用例は記載されている)マレーの記事に依存したからで、この依存の仕方においてもヴェーバーは記事の「事実誤認」を引き継いだうえ、正しい記事まで「誤読」していると主張する。つまり、羽入によれば、ヴェーバーの叙述は、「『倫理』論文前半部の中心的論点」(23)でも、このとおり「杜撰」で、論証の体をなさず、破綻している、というわけである。羽入が主張したのは、たったこれだけである。

  しかし、かりに羽入のこうした主張を全面的に認めるとしても、これだけでは「ヴェーバー杜撰説どまりで、羽入が主眼とした「詐欺師説」「犯罪者説」の立証にはいたらず、かれの目論見は早くも「第一章」で挫折したことになろう。ただかれは、この根本的欠陥を補うかのように、「詐欺説」を仮説としては提起し、(立証は難しいと見て、けっきょくは「杜撰説」に後退するが、そのさい)「ヴェーバーは『シラ』11: 20, 21を調べると自説が破綻すると予想して」調査をわざと怠ったという(「杜撰」と「詐欺」とは本来矛盾するので)なんとも無理ないわば「狡い杜撰説」まで捻出している。上記「OED依存説」を立証しようとするさいにも、推測を重ねて想像上ヴェーバーを「専門家が腹を抱えて笑う」「醜い」対象に据えようとする。羽入には、そうした推測と想像の上でヴェーバーを貶めること自体に、なにか「溜飲を下げる」「感情充足価値」があるかのようである。それだけで「得意になり」「自己満足/自己陶酔」に耽る。そのため、そうした推測を仮説に戻して立証し、ことによると立証されもしようヴェーバーの誤りや不備を乗り越えて学問研究を先に進めようとはしないし、そうすることができない。したがって、羽入書は、独自の学問的貢献をまったく含まず、むしろ研究者/研究志望者が「こうしてはならない」という「反面教材」として役立つにすぎず、そのようなものとして活用されるよりほかはないのである。以上をまえおきとして、ⓑ「唯『シラ』回路説」のパースペクティーフとⓒ「OED依存説」「OED誤読説」などの論難に見られる羽入の誤りと教訓を、念のためにここでもういちど集約的に剔出しておこう。

  ヴェーバーは、第一章第三節第1段落で、「この語Berufは、ルターの聖書翻訳ではまず初めzuerst『ベン・シラの知恵』の一カ所11: 20, 21で、現在とまったく同一の意味で用いられているように思われる。その後すみやかにdann sehr baldこの語は、あらゆるプロテスタント諸民族の世俗語のなかで、現在の意味をもつようになっていった」GAzRS, I, S. 65-6, 大塚訳、95-6ぺージ、梶山訳/安藤編、134ぺージ)と述べている。羽入は、この箇所を、「そこからすみやかに」と読み誤ったのではないか。Beruf 相当語が、ルター訳『シラ』の一カ所に発し、もっぱら『シラ』訳を経由して他言語に波及すると読んだのではないか。しかしそれは、字面の誤読というよりも、羽入がヴェーバーの歴史・社会科学、いや歴史・社会科学一般がなんであるかを理解していないための「早合点」と解したほうがよさそうである。羽入は「ヴェーバー通」(12、参照)を自任しているが、ヴェーバーにおける語義問題を取り上げようというのに、ヴェーバーの「言語ゲマインシャフト」論、したがって「諒解ゲマインシャフト」「諒解行為」という基礎概念も参照していない。ヴェーバーがこうした概念を提示している「理解社会学のカテゴリー」やその基礎概念の具体的展開である『経済と社会』も、おそらく読んではいないし[4]、読んでいてもその意味は分かっていない。あるいは、半分は分かっていても、自分がいま取り上げている問題と関連づけて考えるまでにはいたっていない。そのため、ある語義をそなえた語が、ある「言語ゲマインシャフト」で、ある主体によって創始され、当の「言語ゲマインシャフト」では「言語創造的影響」力を発揮して普及するとしても、他民族の「言語ゲマインシャフト」では、かならずしもそうではなく、一見一方的な「波及」と映る現象も、「波及」先の「言語ゲマインシャフト」における歴史的・社会的諸条件に制約され、複雑/多様な「客観的諸可能性」のひとつが実現されて、まさにそのように「波及」しているかに見える、という事情を、歴史・社会科学的に分析し、認識することができない。そのために、ルターが『シラ』の一カ所で語Berufを創始したからには、他の「言語ゲマインシャフト」でも、『シラ』の同一箇所からBeruf相当語が発して、ドイツと同一のパターンを繰り返し、同一の「言語創造的影響」力を発揮していくと思い込み、「唯『シラ』回路説」を虚構する。そして、「言語ゲマインシャフト」の歴史的・社会的条件も、そのなかで生きる諸個人、とりわけ宗教改革者たちや翻訳者たちの主体性も無視した、そういう「言霊・呪力崇拝」に陥り、そのパースペクティーフのなかに、3[6]段落の論点(「遺物」)を移し入れるのである。羽入が、博士論文の原論文に、「『倫理』論文におけるマックスヴェーバーの魔術からの解放」という表題を掲げているのは、なんとも微笑ましい[5]。羽入には、自分が歴史・社会科学の水準に達せず、「言霊・呪力崇拝」に陥っていること、ヴェーバーが「倫理」論文で考え、読者と対話している内容が自分には内在的に理解できないことなど、要するに自分がどういう状態にあるか、なにものであるか、が分かっていない――いや、意識したくない――のであろう。「言霊・呪力崇拝」の「唯『シラ』回路説」を絶対正しいと信じて、歴史・社会科学、その「第一人者」と見たヴェーバーに、勇猛果敢に挑みかかる。その結果、どういうことになるか。

  ⓒ羽入は、自分の「唯『シラ』回路説」を「ヴェーバーの立論の骨子」(本稿6.)、「ヴェーバーの立論」(同⑷)、「ヴェーバーの主張」(同⑸)、「ヴェーバーの推論」(同⑽)と決めてかかり、反復強調して読者に印象づける。そうしておいて、それならば真っ先に調べるべきは、英訳諸聖書の『シラ』11: 20, 21なのに、ヴェーバーはそうしていないという(じつは、そうする必要がなかった)。羽入が調べてみると、そこはworke, estate, labour, placecallingではない(ヴェーバーの予想を羽入が裏付けた)。そこで羽入は、ヴェーバーがその事実を知っていて、自説に「不都合」と察知し、「本来は全く関係もなく意味もない『コリントT』7: 20に関する詳しい議論に読者の注意を引き付けそらすために『コリントT』7: 20に関する難解な詳論をした」(35)との「詐欺説」を立てようとする。「唯『シラ』回路説」の「言霊・呪力崇拝」に目の眩んだ羽入には、定点観測点としての『コリントT』7: 20の意義がまったく目に入らないらしい。かれの眼目は、ヴェーバーをたんに「杜撰」として非難するだけではなく、「詐欺師」として打倒することにあった。しかし、ヴェーバーが、カルヴァン派のフランス語訳officelabeurを挙示している事実その他から「英訳諸聖書の『シラ』11: 20, 21Beruf相当語で訳されてはいない」と予想していたであろうことは推測できても、その事実を知っていたとまでは立証できない。そこで羽入は、踵を返して、ヴェーバーが当の事実に「少しも気づいていなかったために全く無邪気にも英訳聖書における『ベン・シラの知恵』11: 20, 21を引用しなかった」(35)という「杜撰説」に後退せざるをえない。ただそのさい、後ろ足で蹴り返すことも忘れない。ヴェーバーが当該箇所を引用「できなかった」のも、OEDの記事を引き写したからで、そこには「全く意味のない」『コリントT』7: 20の用例しか挙示されていなかったためである(「OED依存説」)、しかも、一方ではOEDの「事実誤認」をそのまま引き継ぎ(「『事実誤認』引写説」)、他方ではOEDの正しい記事も誤って読み、誤って引用していて(「誤読説」)、論証の体をなさない、という。しかし、はたしてそうか。

 「OED依存説」の推定「根拠」として、羽入はまず、@ヴェーバーが「『箴言』22: 29の『わざmelā’khā』は、比較的古いälter英訳諸聖書ではbusinessと訳されている」と述べた箇所を槍玉に挙げる。この箇所を、羽入のほうで、ヴェーバーが「『古い英訳聖書では』と総称的に述べ」ている、と言い換えておいて、1610年のカトリック「ランス聖書」ではbusiness でなくworkeと訳されているという事実を持ち出し、「『倫理』論文全体の彼の立論にとってもっとも肝心な部分の論拠を調べる時には[この]カトリック訳を参照せず、それに比べればどうでもいいとすら言える『コリントT7: 20を調べる時にはカトリック訳をきちんと調べた」とは「到底考えられぬほど矛盾にみちた行動である」(37)と決めつける。はて、第一章第二節中の小さな注が、なぜ「『倫理』論文全体の彼の立論にとってもっとも肝心な部分」になるのか、羽入の「独り合点」で「全論証構造」の論証がないから、皆目分からないのであるが、それはともかく、ここでヴェーバーは、1617世紀で分けて、羽入が探し出した唯一の例外、1610年の「ランス聖書」は「比較的古い」ほうには属さないと考えていたのかもしれない。したがって、羽入の論難は的を失して宙に浮き、むしろなんとかヴェーバーに「杜撰」の証拠を見つけようと焦って原文の比較級を見落とす軽率さ、つまり羽入の杜撰か、あるいは比較級と知っていながら「総称」に捩じ曲げてヴェーバーの「杜撰」を捏造する羽入の詐術か、どちらかを証明することになる(多分、前者であろう)。

  つぎに羽入は、A通称「ジュネーヴ聖書」の1557年新約版と1560年新旧約版とを、なにかまったく別物であるかのように截然と分け、「ジュネーヴ聖書」を正式名称であるかのごとく後者に限定して「1560年に初めてこの世に現われ」たと称し、他方「1557年のジュネーヴ聖書など有り得ない」として「ウィッティンガム訳新約聖書」と名づける。いうなればこうした「呼称操作」(羽入なら定めし「詐術」というであろうが)によって、OEDの“1557 Geneva”、ヴェーバーの“die Geneva von 1557”という表記を、ともに「間違い」「誤り」と断定し、後者を、前者の「事実誤認」を引き写した結果として、「OED依存説」の一根拠と推認する。

 しかも、こうした伏線を張って、ヴェーバーには別物の1560年ジュネーヴ聖書」が残されたはずとの想定を設け、そのうえに「エリザベスT世時代に公刊された英訳聖書は三種のみ」という根拠不明の制限条項を持ち込み、消去法で、ヴェーバーが「ひとつ余る1560年のジュネーヴ聖書」と「エリザベス時代の英国国教会の宮廷用聖書」とを混同したと推測し、そういう「非常識」な「錯覚」も「ありえないことではない」と書き立て、想像で「専門家が腹を抱えて笑う」姿を描き出す。推測を仮説として検証し、学問上前進しようというのではなく、推測と想像でヴェーバーの「姿」を笑い物にし、「溜飲を下げ」ようという、例の「ルサンチマン」にねざす「学問上の叛乱」劇のハイライトである。書き手の動機を顕す退嬰的な光景ではある。

  さらに羽入は、B「OED誤読説」のひとつとして、ヴェーバーが 11.項目冒頭の「そこからHence」の「そこ」を、10.項目全体の趣旨と受け取らずに、「用例の一つに過ぎぬクランマー聖書からの引用のみ」(48)を受けると「誤読」し、そのうえで「クランマー聖書」を「ピュウリタン的用語法」の起源と見なした、と主張する。しかしこれも、ヴェーバーがOEDの記事をどう読んだか、にかんする羽入の憶測による決め込みで、羽入が斬りつけやすい「ヴェーバー藁人形」を自分で創っているにすぎない。

 ヴェーバーは、一方では、†符号のついた、廃れた語義†10.「身分」の語源が、klēsis, vocatioで、召命を受けたときにいた状態ないし地位が、9.「神の召し」と混同されて、「召し出された身分」の意味を帯びた、と説明され、その用例中に“1539 Cranmer and 1611, in the same callinge, wherin he was called”とあり、他方では、†符号のつかない、つぎの項目11.「職業」についても、「語源はしばしば上記項目[10.と同様」と明記されているのを、双方とも読み比べて、1539年の「クランマー監修訳」(「大聖書」)および1611年の「キング・ジェイムズ欽定訳」が『コリントT』7: 20klēsiscallingeと訳し、これが当初には10.「召し出された身分」の意味で用いられ、やがて廃れて11.「召し出された職業」に移行した(だから1539年クランマー監修訳のcallingeを「召し出された職業」という「ピューリタン的用語法の源泉」と見なせる)と読んだにちがいない。いや、羽入書62-3にも引用されているOED calling項目U. 9.10. 11.の明快な記事は、少し注意深い読者であれば誰が読んでもそう読むのが自然で、ヴェーバーとて例外ではなかったろう。むしろ羽入だけが、10.の†符号と、11.の語源説明とを読み落とし、あるいは読んでもその意味を考えず、10.の一用例を短絡的に11.の語義に結びつけ、この羽入の杜撰な解釈をヴェーバーに転嫁して、なんとヴェーバーの「誤読」と称し、ヴェーバー「杜撰」説の一証拠に「意味変換」してしまっている。

 羽入はまた、C『コリントT』7: 20 klēsis に最初にcallingeを当てたのは「1535年カヴァーデイル聖書」であるから、ヴェーバーが「1539年クランマー聖書」をピュウリタン的なcalling概念の源泉と見るのは「誤り」であり、かれがOEDの記事からそう「即断」した「傍証」であるとする(羽入は、ここでは、OEDの“1539 Cranmer”という記載がすでに「誤記」である、とは明記していない)。これも、当該聖書の錯綜した編纂事情を考慮に入れると、1537年「(偽名)トマス・マシュー訳」を間に挟む1535年「カヴァーデイル訳」と1539年「大聖書」とは、実質上「クランマー監修、カヴァーデイル編訳、ティンダル訳」であるともいえよう。とすれば、そうした「クランマー監修訳」を1539年「大聖書」で代表させたと思われるOEDの表記と、確かにこれに依拠したであろうヴェーバーの説明とを、大上段に振りかぶって「誤り」と決めつけるのも、やや勇み足と思われる。

  ただし、聖書学や聖書史の専門家は「カヴァーデイル訳」を「ティンダル訳」の「焼き直し」と評価して問題にしないとしても、「言語社会学」的比較語義史の観点からは、『コリントT』7: 20にかんするかぎり、その「カヴァーデイル訳」でティンダル訳のstate が初めてcallyngeに置き換えられる事実は、やはり注目に値する。この事実は、イングランドの「言語ゲマインシャフト」では、むしろ英国国教会の公認訳でcallingが多用され、「キング・ジェイムズ欽定訳」にいたる系譜の一環として、「問うに値する」価値関係性をそなえているといえよう。したがって、この点は、「不問に付されていた事実の発見」として羽入の(思わざる)功績と認められよう。ただ、その功績は、ただそれだけでは事実問題として、「倫理」論文の当該注3[6]段落に見える「クランマーの聖書翻訳」という箇所に、「いっそう正確には『クランマーの聖書翻訳』とは、……」と、その成立事情を簡潔に解説する補注を付ければ済むことで、「倫理」論文の根幹を揺るがすほどのものではない。

 むしろ羽入は、この事実発見を、(ことによると「根幹を揺るがす」意義を取得することもありえよう)学問的に生産的な方向で、活かそうとはしない。ヴェーバーの「誤り」「『クランマー聖書』の成立事情にかんする知識の欠落」を剔出すること自体に力み返り、それだけで満足してしまう。かりに1535年版を「カヴァデイル聖書」と認めるとしても、そこでなぜどういう経緯でstate callyngeに置き換えられたのか、そのcallyngeは(callのたんなる動名詞ないし9.宗教的意味の「神の召し」ではなくすでに10.「神に召し出された身分」から11.「使命としての職業」へと聖俗併せ持つ意味を帯びるにいたっていたのか、マレーがOEDの記事で、9.「神の召し」の用例のひとつには“1535 Coverdale”を挙げて1535カヴァデイル訳の存在を確かに認めていたにもかかわらず、10.「身分」、11.「職業」の用例中には1535 Coverdale”を採らず、10.「身分」の用例中に1539 Cranmer and 1611” のほうを挙示したのは、やはり理由のあることで、1535年「カヴァデイル訳」のcallyngeが(『コリントT』7: 20 にかんするかぎり)語義としてはまだ9.「神の召し」にとどまっている、と見たからではないのか、というふうに問いを重ねて、折角発見した事実の「意味解明、「説明する方向には関心を向けようとしない。ましてや、当の事実が、(ウィクリフの先駆け以後は、ティンダルやフウィッティンガムではなく)国教会公認訳系にcallingが多用される事実とどう関連するのか、イングランドという「言語ゲマインシャフト」の歴史的・社会的特性どうむすびついているのか、といった「言語社会学」的比較語義史の問題設定に結びつけ、学問的に膨らませ、当の事実の「文化意義」を見きわめていこうとはさらさらしない。折角スタート地点に立ったのに、前方を見ずに敗走してしまうかのようである。それというのも、羽入が「詐欺説」から後退して死守しようとする「杜撰説」からすれば、「誤り」「知識の欠落」の指摘だけでワン・ポイント稼いだことになり、「溜飲を下げる」のには十分だからであろう。ここにも、ルサンチマンにねざす「学問上の叛乱」劇は学問上不毛であるという事実が、顕著に露呈されているといえよう。

 最後に羽入は、D「細かい誤り」(49)として、ヴェーバーがOED10.「身分」の一用例greater calling11.「職業」の一用例unlawful callingとともに、Beruf=tradeの用例として引用した事実を捉えて、「別の項目の別の用例を一緒くたにして引用してしまっており、項目†10.と項目11.の意味の違いが正確には分かっていなかった」と推認している。このばあいも、批判相手に(「辞典項目の意味の違いも読み取れない」といった)あまりにも稚拙な誤りをなすりつけようとする批判者は、かえって批判者のほうが稚拙ではないか、と問い返される一例である。現実の「言語ゲマインシャフト」においては、語義「諒解」は流動的移行関係にあり、辞典とはそもそも、そうした現実の関係から用例を蒐集して、「理念型」的に明晰/判明な区別を立て、これを規準に、個々の用例を相対的にもっとも近い項目に内属させたものである。このばあい、10.「身分」と11.「職業」とは、両項目の語源説明にもあるとおり、9.「神の召し」から派生してくる語義として、現実には「神に召し出された身分」から「使命としての職業」へと流動的に移行するしかも隣接項目として近い関係にある。そのうえ、†10.†符号が付されて、語義「身分」が廃れるということは、時間がたつにつれて「身分」の語義がうすれ、それだけ「職業」という語義が重きをなして、最終的には後者だけに行き着く、歴史的な移行の関係を意味しないわけにはいかない。したがって、11.の用例を10.の用例に転用することはできないとしても、逆の転用は可能であり、かつ正当である。羽入の「批判」は、このばあいにもやはり、辞典の字面外形に囚われその区別を観念論的/「二項対立的に絶対化して、語義「諒解」の現実の流動的移行関係に思いがおよばない、また、現実のそうしたの流動的移行関係をいかに概念的に鋭く認識するか、という方法/方法論にも想到しない、批判者の生硬なあり方を、問わず語りに語り出しているといえよう。こちらのほうは、けっして「細かい誤り」ではない。

 

 ここで、羽入書「第一章」の批判を終える。つぎは「第二章」から「第四章」にかけて本稿と同様の内在批判を加え、そのうえで「はじめに」「序文」「終章」「あとがき」に表明された羽入のスタンスと動機を問題にする予定である。

 本稿(その1)を閉じるにあたり、ふたつのことを読者にお断りしておきたい。ひとつは、あるいは読者のなかには、筆者のこうした内在批判は、論争「第一ラウンド」でリング上にダウンしている羽入に、「これでもか」といわんばかりに追い打ちをかけ、「畳みかけて」「いじめて」いる、といった印象をもたれ、感情的に反発され、筆者の執筆動機を問われる向きもあろうかと思う。羽入が、かれのためにしつらえられた本コーナーではなく、『Voice5月号の対談に登場して論争回避を表明して以来、筆者の力点は、内在批判から外在考察に移り、内在批判としても、羽入書を「反面教材として活用し、学生/院生諸君や若い研究者諸氏に、とかく落ち込みやすい邪道に陥らないように具体的に警鐘を鳴らし、他方、テクストをいかに読むか、歴史・社会科学者のスタンスはいかにあるべきか、いかに「ヴェーバーでヴェーバーを越える」か、……、老生の所見を忌憚なくお伝えして、いささかなりともこの日本社会における学問の将来を担う方々の前途に役立てようという方向に、移ってきている。しかし、こうした内在批判は同時に、いかに厳しくとも、羽入本人と羽入予備軍が、なんとか知的誠実性を回復して、不毛なルサンチマンの「蟻地獄」から這い出られるように、「知的に誠実に考えていけばこうなるのではないか、反論があるならどうぞ」と「解放の道筋」を明らかにしているはずである。この点も、どうかお見逃しなく。

  つぎに、本稿は、部分稿(その1)であるにもかかわらず、本コーナーに連載してきた従来の拙稿に比して、三倍強にも膨れ上がった。「反復が多い」という印象をもたれる向きも、とくに前稿、前々稿から読み継いできてくださった読者には、多いのではないかと思う。しかしそれは、インターネット上の論考は、書籍とは異なり、あれこれ卓上に指定ぺージを広げて読み比べることがしにくく(パソコンの操作に熟達した方、あるいは数台お持ちの方は別だが)、前稿、前々稿などへの参照指示を出して先を急ぐのは不親切、と気がつき、あえて反復を厭わずに、各稿読み切りでも趣旨が通じるように、と工夫を凝らした結果である。老生が耄碌したためではないので、どうかご心配なく。(2004年7月27日脱稿。つづく)

 

 



[1] そうして国民の言語感覚が研ぎ澄まされていけば、「テロ」を国際犯罪でなく「新しい戦争」と言いくるめ、混同するような、愚かな政治家や政治勢力に籠絡されることはないであろう。

[2]羽入は、「倫理」論文、しかもその「序の口」への視野狭窄のため、事実上「唯『シラ』回路説」を採ることにより、そうした史観しかも「ルター発言霊呪力崇拝」史観に陥っている。

[3] OEDによれば、『コリントT』1: 26のティンダル訳では、9.「神の召し」の意味で、callingeが用いられている(63)。

[4] ヴェーバーの著作中、羽入書にともかくも引用されているのは、「倫理」論文のほか、『職業としての学問』、「客観性論文」くらいであろう。羽入によるそれらの内在的理解は、ここで「倫理」論文について暴露し論証しているほどに低い水準にある。

[5] もとより、「呪力崇拝」論文を書いてそうした表題を付けるほうも付けるほうであるが、審査して学位を認めるほうも、認めるほうである。この題名を踏襲したからといって、その際物を出版社に取り次ぐ歴史家も歴史家である。