「末人」の跳梁――羽入「ヴェーバー詐欺師説」批判結語(1−3)
折原 浩
2004年7月27日
こうした視点と研究プログラムは、ヴェーバー的歴史・社会科学の一ジャンルとして、ここで「言語社会学」的比較語義史と名付けられ、今後、新進気鋭の若手研究者によって引き継がれ、鍛えられ、展開されていってほしい[1]と思う。とまれヴェーバーは、問題の注3第[6]段落で「イングランドにおけるBeruf相当語の普及経緯」という(まさに羽入が抜き出す)論点に入る直前の第[5]段落末尾で、かれが「倫理」論文の主題との関連で最重要視していたカルヴァン派への影響にこと寄せて、そうした視点を明快に語り出し、影響先「言語ゲマインシャフト」の歴史的・社会的諸条件と、そのなかに生きる宗教改革者・翻訳者の主体性を捨象しないようにと警告を発した(あるいは、かれの歴史・社会科学に少しでも通じていれば、そう警告していると読み取れるように語った)。しかも、カルヴァン派の大衆宗教性が「確証問題への関心」(という主体的条件の成熟)から、ルターの職業概念を受け入れて鋳直すのは、後代(17世紀以降)のことで、ルターの直接の影響には帰せられず、イングランドにおけるBeruf相当語callingの成立/普及だけにも帰せられない、それこそ(「倫理」論文の主題にとっては)はるかに重要な問題で、本論(第二章)に入って正面から本格的に取り扱うから、このあと注3第[6]段落では立ち入らない、およそ注しかもその末尾で触れて済ませられる問題ではない、とはっきり断っている、あるいは断っているも同然なのである。
ⓒ羽入は、自分の「唯『シラ』回路説」を「ヴェーバーの立論の骨子」(本稿6.⑶)、「ヴェーバーの立論」(同⑷)、「ヴェーバーの主張」(同⑸)、「ヴェーバーの推論」(同⑽)と決めてかかり、反復強調して読者に印象づける。そうしておいて、それならば真っ先に調べるべきは、英訳諸聖書の『シラ』11: 20, 21なのに、ヴェーバーはそうしていないという(じつは、そうする必要がなかった)。羽入が調べてみると、そこはworke, estate, labour, placeでcallingではない(ヴェーバーの予想を羽入が裏付けた)。そこで羽入は、ヴェーバーがその事実を知っていて、自説に「不都合」と察知し、「本来は全く関係もなく意味もない『コリントT』7: 20に関する詳しい議論に読者の注意を引き付けそらすために『コリントT』7: 20に関する難解な詳論をした」(35)との「詐欺説」を立てようとする。「唯『シラ』回路説」の「言霊・呪力崇拝」に目の眩んだ羽入には、定点観測点としての『コリントT』7: 20の意義がまったく目に入らないらしい。かれの眼目は、ヴェーバーをたんに「杜撰」として非難するだけではなく、「詐欺師」として打倒することにあった。しかし、ヴェーバーが、カルヴァン派のフランス語訳officeとlabeurを挙示している事実その他から「英訳諸聖書の『シラ』11: 20, 21もBeruf相当語で訳されてはいない」と予想していたであろうことは推測できても、その事実を知っていたとまでは立証できない。そこで羽入は、踵を返して、ヴェーバーが当の事実に「少しも気づいていなかったために、全く無邪気にも英訳聖書における『ベン・シラの知恵』11: 20, 21を引用しなかった」(35)という「杜撰説」に後退せざるをえない。ただそのさい、後ろ足で蹴り返すことも忘れない。ヴェーバーが当該箇所を引用「できなかった」のも、OEDの記事を引き写したからで、そこには「全く意味のない」『コリントT』7: 20の用例しか挙示されていなかったためである(「OED依存説」)、しかも、一方ではOEDの「事実誤認」をそのまま引き継ぎ(「『事実誤認』引写説」)、他方ではOEDの正しい記事も誤って読み、誤って引用していて(「誤読説」)、論証の体をなさない、という。しかし、はたしてそうか。
[1] そうして国民の言語感覚が研ぎ澄まされていけば、「テロ」を国際犯罪でなく「新しい戦争」と言いくるめ、混同するような、愚かな政治家や政治勢力に籠絡されることはないであろう。
[2]羽入は、「倫理」論文、しかもその「序の口」への視野狭窄のため、事実上「唯『シラ』回路説」を採ることにより、そうした史観しかも「ルター発言霊・呪力崇拝」史観に陥っている。
[3] OEDによれば、『コリントT』1: 26のティンダル訳では、9.「神の召し」の意味で、callingeが用いられている(63)。
[4] ヴェーバーの著作中、羽入書にともかくも引用されているのは、「倫理」論文のほか、『職業としての学問』、「客観性論文」くらいであろう。羽入によるそれらの内在的理解は、ここで「倫理」論文について暴露し論証しているほどに低い水準にある。
[5] もとより、「呪力崇拝」論文を書いてそうした表題を付けるほうも付けるほうであるが、審査して学位を認めるほうも、認めるほうである。この題名を踏襲したからといって、その際物を出版社に取り次ぐ歴史家も歴史家である。